東日本大震災が起きてから、2ヶ月が過ぎようとしています。

直後からブログで発信し続けていましたが、何故か書けない部分がありました。それは、当日の詳細。

大して何かあったわけではないのだけれど、自分の中で消化できず、まとまった文章にすることができませんでした。

首都圏に住む1人の会社員がどんな1日を過ごしたのか、書き残しておくことに少しは意味があると思うので、49日を過ぎた今、書いておこうと思います。

3月11日(金)

仕事がたまっていた私は、夫に娘のお迎えを頼み、残業して帰る予定でした。

3月〜4月といえば、人事にとって繁忙期。今回は、新しい次世代育成支援計画を作らないといけないし、メンタルヘルス支援の仕組みもまとめなければならず、やることは山積していました。

14:26

地震が起きました。

最初は、「随分大きいね〜」なんて普通に席に座っていたのですが、途中から、誰に言われるともなく、机の下に潜りました。

必死になってヘルメットを装着。

防災用品セットが1人1つあり、机の下にかけることになっているのですが、邪魔としか思っていなかったヘルメットをこんなに有難く感じるようになるとは、思ってもみませんでした。

机の引き出しが飛び出てガタガタいい、かなり長時間揺れました。

正直、これが続いたら、このまま死んでしまうのではないだろうかとも思いました。だって、今までこんなに強くて長い地震、体験したことがありませんでしたから。

ようやくちょっと収まり、机の下から這い出て「怖かったね」と言ってネットで状況を調べたりしていたら、再度大きな揺れ。

外に出て落下物により怪我をする危険性もあるため、会社としては「危険だから、社内で待機すること」という指示を出しました。

しばらくすると、社内では結構みんな普通に仕事をしていて、びっくりしました。

私も、仕事が溜まっているので「今日の残業どうなるかしら」なんて呑気なことを考えたりしていて…。

でも、余震が収まらず、震源が東京から遠く離れた宮城県沖と聞いて、一体何が起きているのだろうと思いました。

娘の保育園からは15時台に一斉メールがあり「子供達はみんな無事です」との連絡があり、安堵しました。

また、夫や他の家族ともメールで安否確認ができました。

仕事をしなければいけないと思うのだけど頭が回らず、娘のことを第一に行動しなければいけないのに、どうしていいかも分からず…。何だか思考停止状態でした。

電車が止まり、帰宅するのが難しいようだという流れになったので、総務部ではその準備も考え始めました。

どれくらいの人が残るのか、女性はどれくらい泊まるのか。非常食は出したほうがいいのか。

そんなことを打ち合わせしていると、時間はどんどん過ぎていきました。

娘の保育園からはその後何の連絡もなく、迎えに行けないけど、どうしよう…。と思っていたら、夫から「これから歩いて帰る」とのメールがありました。

夫は定時が17時15分までだから、その後、すぐに職場を出たようです。夫が歩いてくれるのだったら、娘は彼に託そう、と思って、私は会社に残ることにしました。

一応、総務部の人間として、ここに残らなくてはいけない義務があるように思ったのです。

その後、同じマンションのママ友が携帯に電話をしてくれて「歩いて帰っているのだけど、まるちゃんお迎えに行こうか」と申し出て下さったので、夫が歩いているのだけれど、多分遅くなると思うから、どうかよろしくお願いしますと話しをしました。

思考が必要な仕事はできなかったけれど、社内アナウンスをしたり、女性達の帰宅状況を確認したりしていたら、もう夜になっていました。

会社の周囲の飲食店は普通に営業しているようだったので、ダイニングバーに行き、アルコール抜きで、パスタやピザを食べました。他のお客さんを見ると、普通にワイン飲んだりしていたので、みんな泊まりを覚悟で飲んでいたのかもしれません。

普通の食事を取ることができて、人心地がつき、また会社に戻りました。

この頃になると、都営地下鉄が動き出すという話になり、結構人が減りました。

JRは結構早い時間から「今日は電車復旧できません」とお手上げ宣言を出していたので、JR沿線の人たちはどうにもならなかったのですが。

こうして人がはけていくにつれて、「明日、少しでも早く子供のところに帰りたい。卒園式はどうなるんだろう」という気持ちが強くなりました。そう、翌日は保育園の卒園式だったのです。

今更歩いては帰れないから、明日会社から自宅に帰るにしても、浜松町からだと遅くなってしまう…。それなら、妹の家に泊めてもらって、少しでも自宅に近い場所にいたほうがいいんじゃないかと考え始めました(妹の家からならは、電車1本で帰宅できる)。

でも、異常な状態になっているところに1人で出ていくのは怖いので、誰か途中まででも一緒に行ってくれる人はいないかなと考えていたら、後輩が神田にいるお父さんのところまで行くというので、途中の駅まで一緒に歩いていくことにしました。

他の総務部メンバー(男性)は、電車が動いていて帰れる人も含めてみんな会社に泊まるとのことだったので申し訳ないと思いながら会社を出ました。

第一京浜国道に出ると、一時期のラッシュのような混雑は落ち着き(歩道からはみ出て車道に落ちそうになっていたそうです)、みんな黙々と道路を歩いていました。

バスも走っていましたが、明らかに歩いたほうが早い渋滞ぶりだったので、誰も乗ろうとしませんでした。

しかし、22時半の浜松町なんて普段は人通りが殆どないのに、渋谷の街角並みに人が歩いていたのにはびっくりしました。まあ、それが逆に安心感あってよかったんですが。

途中、大門の交差点にスキンヘッドの3人組がいて一瞬緊張感が走ったのですが、「帰宅できない方は、増上寺で受け入れています〜」との声を聞いて、ただのラフな格好をしたお坊さんだということが分かり、苦笑。

新橋まで歩いて都営銀座線に乗ろうとしたら、改札で入場制限をしていて少し待たされました。車内はどれくらい混んでいるのだろう…と、戦々恐々として電車を待っていたら、意外に空いていてびっくり(もちろん座れはしませんが、新聞読めそうな感じでした)。

ということで、予想外に順調に上野広小路駅に着きました。改札に警察官がいてくれて、非常に安心しました。

日本は、こういう時にも治安の悪化がなく、それを守ろうと動いてくれている警察官や公務員がいてくれることは、本当に有難いことだと感じました。

妹のマンションの近くのコンビニに寄りましたが、カップ麺やすぐに食べられる物は売り切れていて、お菓子やアルコールは普通にありました。

妹のマンションも、地震直後はエレベーターが止まっていたようですが、私が行った時には1基だけですが動いていて、大変助かりました。

そして、ようやく、妹の部屋に到着。

ここまで、危険な目になんて全く合わなかったのだけど、家族の住む場所に入れただけで、本当に安心しました。やっぱり緊張していたんでしょうね。

お風呂にも入れてもらい、長かった1日の疲れを取ることができました。

でも、その後、被災地の様子をテレビで見て、茫然としたのでした。一体、何が起きているのだ…と。

映像を消化できないまま、明日に備えて寝ました。

3月12日(土)

起床してテレビをつけると、私の路線は8時頃から動き出すということだったので早めに上野駅に行ったのですが、全く動く気配なし。

心配して送りに来てくれた妹と1時間半以上待っていたのだけれど、仮に動いてもどうせすぐには乗れないだろうからと、断念して妹の家に戻ることにしました。

娘の卒園式が1時間開始時間を遅らせたものの予定通り開催されるとのことで、「絶対に間に合わないから、それならばもう、何時に帰っても同じだ…」という気持ちになったのです。

途中、吉池に行き食料品を買いましたが、生鮮食品も含めて物が豊富にあり、「ここには日常がある」と安堵しました。また、アメ横でも、普通に魚屋さんがマグロ売っていて、日常生活が営まれていることの素晴らしさを感じました。

また、意外にも上野動物園が通常通り営業していて、上野公園ではテキヤのお兄さん達が開店準備をしていました。

あまりに非日常的なことが続いていたので、こういう「何があっても日常を続ける」方々の姿を見て、非常に勇気づけられました。

だって、「このままでは、日本は終わってしまうのではないか」と思うような惨状ばかりでしたから。

妹のマンションに戻ると、妹の配偶者のお父さんとお兄さんが来ていました。

お父さんは、昨晩、送別会をする予定だったお蕎麦屋さんに泊めていただいたとのこと。店舗兼住居のそちらのお蕎麦屋さんは、ありったけのお布団を出して、お客さんを泊めて下さったそうです。

恐縮して、宿泊代見合いを支払おうとしたら、「うちは蕎麦屋ですから。宿屋はやったことがないので」と言って受け取られなかったそうです。

お兄さんは、会社に泊まったそうですが、会社には毛布等がなく、区営の施設に借りにいったのだとか。こういう時に、困っている人のために夜を徹して動いてくれる人がいるということは有難いことだなと思いました。

お父さんとお兄さんも、私と同じ路線なので「電車は動きそうもないし、動いてもすごい混雑だから、落ち着くまで待っていよう」ということで、みんなで待つことにしました。

午後になり、お昼ご飯食べたりしていたら、大分混雑が緩和されてきたようだったので、15時前にお父さん・お兄さんと一緒に乗車しました。

お話したのは妹の結婚式以来だったのですが、とても穏やかで冷静な方達だったので、こちらも安心して過ごすことができました。こういう時、1人だと本当に心細いですから。

乗った電車も思っていたよりは空いていて、順調に帰宅することができました。私の最寄駅までは電車が動いていたので、そこでお別れしたのですが、お父さんとお兄さんの駅までは電車が動いておらず、途中駅まで迎えに来てもらったりして、大変だったようです。

電車が動いていることって当たり前だと思っていたけれど(人身事故で数時間止まるのは別として)、電車が動き、みんなが移動できるかどうかって本当に大切なことなのだなとしみじみ感じました。

そして、16時過ぎに帰宅。

家族感動の再会かと思いきや、午前中、卒園式に行き、疲れた父と娘は爆睡していました。そりゃあ、無理ないよね。父は35キロを歩き、娘は夜23時のお迎えまで保育園にいたのに、翌朝卒園式に行ったのだから。

でも、ベッドで寝顔を見ていたら、娘が私の気配を感じて起きてきて、色々と報告してくれました。妙に饒舌だったように記憶しています。

さて、ようやく家族再会できた3月12日は、夫の誕生日でした。

生活クラブでステーキ肉と冷凍のケーキを買ってあったので、何とかそれでお祝いすることができました。誕生日には駅前のデパートでケーキ買おうと思っていたのだけれど、当然デパートなんてやっていなかったので、冷凍ケーキがあってよかったと思いました。

こうして、私は、日常に戻ることができました。

もちろん、その後も計画停電があったり、電車の運行状況がメチャクチャになったり、色々と大変なことがありましたが、住む家があり、普通に食べ物があり、家族が安全に暮らせるのだから、何も言うことはありません。

放射線についても、「仮に害があるとしても、少なくとも亡くなるまでそれなりの猶予がある。いきなり命を奪われる理不尽さを思えば、何てことない」と考えていました。

そう、私にとって一番の恐怖は、家族にも誰にもお別れを言うことなく、この世から去らなければならない状況に陥ることです。それ以外のことならば、多少の不便も、多少の危険性も許容します。